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高昌古城〈世界遺産〉

トルファン市街から東に約45km、火焔山南麓にある高昌故城は、紀元前1世紀から14世紀の間、新彊における政治経済文化の中心地の一つであった。

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高昌古城は、漢代から約1000間栄えたトルファンの王城跡地。総面積は200万㎡、東西1.6Km、南北1.5Kmの城塞都市。王城内城外城と3部分に分かれ、日干しレンガにより建物が築かれた。

 最盛期は麴氏高昌国から西ウイグル(高昌ウイグル)王国の時代。439年、北魏の太武帝によって五胡十六国の北涼(敦煌など甘粛を支配していた)などが滅ぼされ、華北が統一された。この匈奴系の北涼が滅んだとき、その王族の一人沮渠無諱(しょきょむき)が西に逃れ、トゥルファン盆地に入り、450年に王を称した。これが高昌国の始まりであり、その後、闞(かん)氏、張氏、馬氏、麹(きく)氏と支配者は交替した。

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豊かなオアシス都市であったので、絶えず周辺の騎馬遊牧民の脅威にさらされており、柔然高車鉄勒突厥の侵攻が続いた。また、北魏の影響力も強く、それは西魏まで続いた。このころは漢人や北方遊牧民だけでなく、西方からのソグド商人の活動が盛んだった。

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501年ごろ高昌国王となった漢人の麹氏は北魏の冊封を受けて国家体制を整備した。7世紀に入り、隋に続いて唐が中国の統一支配を始めると、唐の太宗は西域制圧に乗り出し、麹文泰は突厥と結んで抵抗したが敗れて長安に送られ、高昌国は滅亡した。唐はトルファンを西州として直接支配し、安西都護府を置き、その支配が西域、中央アジアにも及んできた。629年に国禁を犯して、インドへ求法の旅に出た玄奘三蔵法師が行く途中に高昌国王麹文泰から手厚い保護を受けここに滞在し、1か月にわたって説法を行なった。仏教を篤く信仰する高昌国王は、玄奘が帰路に3年間滞在することを約束したことに関わらず、玄奘がインド滞在中に高昌国は唐に滅ぼされた。13世紀にモンゴルの遠征軍の攻撃に遭い、高昌城も廃墟となってしまった。