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寧夏銀川 西夏王陵

西夏王陵(せいかおうりょう)

銀川市内から西へ約35㎞行った賀蘭山東麓にある西夏(1038~1227年)の王墓群。平原から突き出ている盛土のようなもので、仏教建築の影響を受け、漢族とタングート族の民族文化が融合した独自の形態となっている。

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西夏王陵は、北から南に向かって長方形で、東西4㎞、南北10㎞のエリアに9つの皇帝陵と271の陪葬墓が残っている。王陵区の中央に位置する最大規模の陵墓は「3号陵」“昊王陵”と呼ばれ、初代皇帝の李元昊の陵墓ではないかと推定されている。ひときわ大きい、もともとは霊台という八角形をした塔だったが、風化して現在のような円錐形になってしまった。

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タングート族(Tangut党項とも書く)6世紀から~14世紀にかけて中国北西部で活躍したチベット系民族。原住地は青海から四川一帯の山地。拓跋氏を始めとするタングート族は、8世紀の初期に玄宗皇帝の恩恵を賜り、オルドス地域に移ってきまして漢民族の文化を受け入れて農耕をはじめった。唐末に黄巣農民蜂起が起こって、唐王朝は拓跋氏の勢力を利用して黄巣農民蜂起を鎮圧した。唐王朝は皇室の名字「李」を拓跋氏に使うようにした。当時の拓跋氏の有力者は拓跋思恭は李思恭と改めて、夏国公という地方大名にもなった。

西夏の成立
唐末、黄河が屈曲するオルドスにおこったチベット系のタングート族(党項)は、吐蕃・ウイグルの衰退に乗じて東西交通の要衝河西地方(その中心が敦煌)に進出し、東西貿易路から得られる利益を基礎に強大化した。
1038年、族長の李元昊は、西夏を建国(1038年〜1227年)し、都をオルドスと河西の境界にあたる興慶府においた。

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宋ははじめ西夏の建国を認めず、宋・西夏間の戦争が勃発したが、苦戦に陥った宋は1044年、西夏と和約し(慶歴の和約)、西夏は宋に臣下の礼をとるかわりに毎年多額の歳賜(毎年銀5万両・絹13万匹など)を贈られることになった。また、宋との間には2ヶ所の榷場((かくじょう)官営交易場)が設置され、国境貿易がおこなわれた。

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西夏は中国式の文武の官制や儀礼などを採用し、州・都を設けて中央集権体制をとった。その支配下には漢人や吐蕃族・ウイグル族を含み、一種の複合国家でもあった。
また儒教の導入により『論語』『孟子』『孝経』などの古典が翻訳され、仏教も盛行し、漢字をまねた独自の西夏文字をつくり、儒教の経典や仏典をはじめ多くの翻訳書を残している。